プロフィール

はじめまして。ご訪問ありがとうございます。

オンライン相談室「snowmelt」(スノーメルト)を運営しています、森 宏美です。

どうして私が相談室を開設することになったのか、ちょっと長い自己紹介をしたいと思います。

私の幼少期

私は、全く仕事をしないダメな父親と、超世話焼きの母親の間に生まれました。年の離れた姉が二人います。

当時のわが家では飲食店を経営してまして、私は赤ちゃん時代、そこでの「看板娘」でした。

今も歌うことが大好きですが、当時からカラオケマイクを握って離さなかったようです(笑)。

私が3、4歳ごろ、父親に対して我慢の限界だった母が、父を追い出して、母子家庭になりました。

働かない父親ではありましたが、私のことは可愛がってくれていたので、寂しかったことをよく覚えてます。

ただ、幼いながらにも、母には「寂しい」と言ってはいけない、というのはなんとなく感じてました。

母は、私への教育にのめりこんでまして、胎教に始まり、小学校受験対応の幼稚園に通い、小さい頃はよく「天才だ!」と言われてました。…大人になったら、結局凡人でしたが(笑)。

とにかく勉強をして、医者や弁護士になること、もしくはそういう人と結婚することで、「お金持ちになって私(母)に楽をさせろ」という考えで、

「私がレールを敷いてあげるから、お前はそれに乗って走ればいい。」

というのが母の口癖でした。

小さい頃は特に抵抗もせず、素直にそれに従ってました。

いい成績をとれば認めてもらえるが、反対に期待を裏切れば、私は捨てられるのだ、と理解していました。

残念な学生時代

とりあえずそんな感じで、母の強い思いと、優秀でスパルタな姉の指導により、わりと勉強はできる子でした。

でも私、ADHD傾向がありまして、小学校に入ったころは、忘れ物や失くし物が多くて、いつも先生に怒られてました。

母子家庭で貧しくて、だらしのない子、ということで、低学年クラスでは仲間外れなどのいじめにあいました。

何度も「学校に行きたくない」と母に訴えましたが、聞き入れてもらえず、なかなか休ませてもらえなかったので、よく保健室のお世話になりました。

やがて高学年になり、ADHDの症状も落ち着き、私もクラスの女の子たちとの、ほどよい距離感がつかめてきて、学校生活を乗りきることができました。

それでも、地元のわずらわしい人間関係から離れたい思いから、中学受験することに決めました。

幸い、予想以上に偏差値の高い中高一貫の女子校に入ることができ、以降は穏やかな学校生活を送ることができました。

中学校では勉強から解放されて、マンガ・アニメにのめり込み、自分で同人誌を描いたり、声優さんに憧れたり。

高校進学頃は音楽にはまり、友人のお兄ちゃんたちのバンドにボーカルとして参加させてもらいました。

そんな感じで自由に遊びふけっていたことで、思い通りの娘になっていないと、母は激怒。

私が好きなアニメやマンガを見れば、「くだらない」

私が歌っているのを聴けば、「変な歌、へたくそ」

私の好きな世界はことごとく反対され、否定される毎日が続きます。

「母の望むようないい子になれない私は、このまま生きている価値はあるのだろうか…」

と思い悩むようになりました。

そんなときに、家に帰りたくなくて立ち寄った本屋さんで、自殺未遂者の声を取り上げた本に出会ったのです。

その中の、強烈なメッセージが、「死にたい」は「生きたい」

私はこれだ!とその時思いました。

私と同じような思いをしている人たちに、

「大丈夫だよ」「安心して自分らしく生きていこう」

って言える人になりたい。

そう強く思い、進路選択を急きょ理系に変更し、苦手な数学と格闘しながら、精神科医になるべく、医学部への受験勉強をはじめました。

…そうはいっても、急な努力で簡単に苦手が克服できるわけもなく、あっけなく挫折しました。

経済的にも私立の医学部へ行くことは難しく、浪人できる環境でもなかったため、精神分析が学べる心理学部へ進学することに。私が行くことにした大学は全く知名度のない大学だったので、「そんな大学に払う金はない」と母に援助を打ち切られたため、学費はすべて自分で賄いました。

大学で学んだこと

タイミングよく、私が大学1年の終わりに、ちょうど精神保健福祉士(以下PSW)の資格ができました。これで精神科で働ける!夢がかなう!と当時の私はウキウキでした。

2年生からは精神科クリニックのデイケアにボランティア参加し、統合失調症の患者さんたちと、レクや作業をして、楽しく過ごしました。ボランティア先で実習まで受け入れて頂けて、大変ありがたかったです。

同じ頃、依存症についても学びました。当初、私には無縁だと思っていましたが、担当の先生の意向で、単位取得のために、「何らかの自助グループに3回参加」というノルマがあり、そこで強制的にグループミーティングに参加することになりました。

最初に参加したのは、EAのミーティングです。ただ座っていればいいや、と参加したはずのミーティングで、私はなぜか、自然に家族の話をしていました。依存症を、初めて自分ごととして捉えられた瞬間でした。

でも、当時はまだ、向き合うことは怖かった。

恩師である松本すみ子先生との出会いも、私が仕事をする上で本当に貴重でした。対人援助職として働くことについて、多くのことを学びました。あの先生でなければ、ずっとずっとこの仕事がしたい、と思えなかったかもしれません。今でも尊敬している、大好きな人の一人です。

相談員としての日々

大学卒業後、さいたま市に精神保健福祉士として入職しました。

本当は、精神障害者の社会復帰施設での就職を希望してましたが、生意気な私は面接で理想を語りまくったせいか、ことごとく不採用で、結果、唯一受かった公務員になりました。

当時採用された職員の中で一番年少だったので、上司には子どものように、大変可愛がってもらいました。

準備期間に病院などの実習・研修を経て、精神保健福祉センターに配属され、はれて相談業務に就くことになりました。

ひたすら入ったご相談をお受けする毎日。とにかくがむしゃらに働きました。

キャリア5年目で結婚し、翌年に保健所に異動になり、引きこもりや依存症の家族相談中心から、精神疾患の疑いのある患者さんを病院につなぐための相談中心に変わりました。圧倒的な担当ケースの多さ、精神科救急情報センターでの夜勤、職場の人間関係のストレスなどを抱え、なかなか子どもができず、ずっと葛藤していました。

子どもは欲しいけど、やっとつかんだキャリアは手放せない。手放したくない。そんな気持ちを抱えて、不妊治療をしていました。

仕事をして10年目の9月。私はようやく妊娠したにも関わらず、流産しました。

仕事と子どもを天秤にかけた、私に罰があったのだ、と当時は思いました。

違和感はあったのに、普段通り出勤した自分が許せなくて、「子どもを殺してしまった」という罪悪感から、何度も死にたいと思いました。

メンタルヘルスの専門家でありながら、完全に自分の精神が崩壊してました。

そもそも、家族の対応方法を変えて、本人の変化をじっくり待つ、という精神保健福祉センターの相談と比べて、すぐに結論を出さなければいけない保健所での仕事は、私には合わなかった。それでも、公務員10年のキャリアを捨てる勇気がなかった。

流産は、「仕事を辞めてもいいんだよ」というチャンスを私にくれたのかもしれない。私はそう解釈し、その年末に退職しました。

残念な専業主婦時代

そんな形で退職しましたが、翌年にはあっけなく妊娠→出産することができました。

妊娠中に多少トラブルはあったものの、出産までは、幸せで幸せで、仕方なかったです。

問題は産後。ようやく産まれた子どもだったこともあり、「ちゃんと育てなくては」という、ちょっと強迫的な思いもあって、何で泣いてるのかわからない、全然寝ない、離乳食を食べない…など、何かあるたびに、育児書やグーグル検索で答えを探しまくりました。

とにかく毎日疲れてて、午前中公園や支援センターで遊ばせることで精一杯で、後はどう過ごしていたか、よく覚えてません(笑)。

でも時々、ものすごく夫に対して怒りが湧いて、仕方ない日がありました。

「こんなに私が子どもと向き合って、神経すり減らしてるのに、何普通に生活してるの!!」

という、今思えば完全な八つ当たりを夫にぶつけていました(笑)。

そんな毎日の中で、私は専業主婦であることに、じわじわと限界を感じていました。

子どもが1歳を過ぎ、いざ、仕事をしよう!と思い立っても、私の住む地域は、日本一待機児童が多い、保育園の大激戦区。いったん仕事を辞めている私は完全に不利で、無認可すら入れない状況でした。

就職活動も、資格・キャリアがあっても、小さな子どもがいて、残業・時間外勤務ができない、いつ休むかわからない等々、条件が合わずそううまくはいきませんでした。

子どもを預けてまで働くのに、やりたくない仕事をイヤイヤやるのは、子どもにも失礼なのでは、と、結局、臨時職員で前の職場に戻ることにしました。

3年ぶりの相談業。主婦の経験をした分、気持ちに幅が広がって、前よりも、丁寧に、余裕をもって相談対応ができるようになりました。

何とも言えない充実感。復職後すぐは、子どもが何かと病気になり、度々ご迷惑はかけてしまったけれど、社会に自分の居場所があることは、私にとっては救いになりました。

パート相談員→起業まで

とはいえ、責任を負えない臨時職員という立場だったので、以前のようにクライアントの担当を請け負うというよりは、ひたすら電話相談に応じるような毎日で、慣れていくたびに物足りなさも感じました。

一生懸命働いても、キャリアがあっても、1年目の相談員の半分の給料にも満たないことも、モヤモヤする理由の一つでもありました。非正規公務員の労働条件の悪さは、本当になんとかしてほしいです。

ほぼフルタイムで働いても、家計を支えるほどの額にはならないし、夫に対しての劣等感も募っていきました。

そんな中で、ぼんやり、ずっとずっと心にしまっていた、自分の相談室を開く夢、欲求が高まっていきました。

もっと自分ができることをクライアントに提供したい。

私を必要としてくれる人に、幸せになってほしい。

そんな思いから、2年間のパート勤務ののち、独立を決意しました。

そして2017年、この相談室は誕生したのです。